レディー・ガガ
出生名 Stefani Joanne Angelina Germanotta[1]
出生 1986年3月28日(23歳)
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク州
身長 155cm
ジャンル ポップ、ダンス[2]、エレクトロニカ[3][4]
職業 歌手、ソングライター、ミュージシャン
担当楽器 声、ピアノ、シンセサイザー
活動期間 2006年 – 現在
レーベル デフ・ジャム(2007-2008年)
インタースコープ・レコード(2008年-現在)
公式サイト www.ladygaga.com
■人物
ステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ(1986年3月28日 - [5])は、レディー・ガガ[6]の芸名で知られるアメリカ合衆国のレコーディング・アーティスト。ニューヨークのアッパー・ウエストで実業家の家庭に生まれる。13歳になるころには初のピアノ・バラードを作曲。14歳でマンハッタンの聖心女子学院(ヒルトン姉妹が通った)に在学した。また、17歳で世界で20人しか早期入学が許されないニューヨーク大学の芸術学部に合格。 ガガは19歳の時にデフ・ジャムと契約し、ニューヨーク市の近郊のクラブでダンサーをしながら生計を立てた。また同時期インタースコープ・レコードとソングライターとして契約をし、同レーベルのアーティストを中心に複数のミュージシャンに楽曲提供を行った。その後楽曲提供を行う中でエイコンにガガの歌手としての才能を認められ、エイコン自身のレーベルコンライブとレコード契約し、歌手としてのキャリアをスタートさせた。
2008年にリリースされたガガのデビュー・アルバム『ザ・フェイム』は商業的に大きな成功を収めた。アルバムは多くの批評家から肯定的評価を受けたのに加え、4カ国の音楽チャートで1位を獲得。また、アメリカ合衆国ビルボードのダンス/エレクトロニカ・アルバム・チャートでも1位になった。アルバムからの最初のシングル2曲「ジャスト・ダンス」、「ポーカー・フェイス」は世界中のチャートで1位を獲得する大ヒットとなり、前者は第51回グラミー賞にて最優秀ダンス・レコーディング賞にノミネートされた。ガガは2009年にニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックツアーとプッシーキャット・ドールズのツアーに同行した後、自身初のライブ・ツアーThe Fame Ball Tourに乗り出している。彼女は現在までにデジタル・シングルで計2000万ユニット、アルバムは800万枚以上を売り上げており、2009年の売上面で大きな成功を収めたアーティストの一人となった[7][8]。
音楽的にガガはデヴィッド・ボウイとクイーンの様なグラム・ロッカーのほか、マイケル・ジャクソンやカイリー・ミノーグ、マドンナといった複数のポップ歌手からの影響を受けている。また同時に自身が作詞・作曲とパフォーマンスを行う上で必須の部分であると主張するファッションの面からも強い影響を受けており、たとえばシマダジュンコの強い影響を指摘する声が米国に存在する。[9]
更にガガはゲイ・コミュニティへの支持を打ち出しており、自らが活動初期の段階から大きな成功を収めることが出来た点については同性愛者からの支持があったことをあげている。
■来歴
◇1986 – 2004年:生い立ち
ガガはイタリア系アメリカ人の父ジョセフと同じくイタリア系のシンシア・ジャーマノッタの長女としてニューヨーク州ヨンカーズに生まれる。父はインターネット企業の実業家[10][11][12]。カトリック系の私立学校、Convent of the Sacred Heartに通う[13]。同学校はヒルトン姉妹(パリスとニッキー)も在籍していたお嬢様学校だが[14]、パリスとは6歳年が離れており学年が違う為、学校の廊下で見かけたことしかないという[15]。4歳で楽譜なしでピアノが演奏できるようになり、13歳で初のピアノ・バラードを作曲した。14歳からニューヨークのクラブでパフォーマンスを開始し、17歳で世界で20人しか早期入学が許されないニューヨークにあるティッシュ・スクール・オブ・アートに入学する。そこで彼女は音楽を本格的に学び、エッセイや論文を書くことによって作詞作曲技術を改善した。後に音楽活動に集中するために学校から退いた[16]。
◇2005 - 2007年:初期のキャリア
ガガは19歳の時、デフ・ジャム・レコーディングスとの間で契約を結んだ。同じころ、親元を離れストリップクラブで働き出す。このことは特に隠さず、「ストリップクラブで働いていたの。私のようなリッチなイタリア系の家庭の出では珍しいことよね」とストリッパーとして生計を立てていたことを明かしている。ストリッパーとして人気があったようで、ステージでヘアスプレイに火を付けて、狂ったように踊ったという。家族の助けなしに生活することで自由を実感したと語るが、家族は認めてくれなかった[17]。その他、ドラァグ・クイーンとゴーゴーダンサーとパフォーマンスを行うためにクラブに出入りしており、このことを知った父は大変なショックを受け、ガガ本人も「あのとき、2、3ヶ月の間父は私を直視することが出来なかった」と認めている[13]。ガガの初期に制作された楽曲に携わった音楽プロデューサーのロブ・フサーリはガガの声のスタイルをフレディー・マーキュリーのそれと比較し、クイーンの楽曲「Radio Ga Ga」をもじり、現在の芸名"Lady Gaga"を彼女に与えた[18][14]。
2007年にインタースコープ・レコードとソングライター契約し、同レーベルに所属するファーギー、ブリトニー・スピアーズ、プッシーキャット・ドールズ、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、エイコンといった有名アーティストに楽曲を提供した[14]。制作者として活動を続けていたときにエイコンがガガには制作者としてだけではなく、歌手としての才能もあると認め自身のレーベルコンライブとアーティスト契約を締結。エイコンはガガについて、「類稀な存在」「ダイアモンドの原石」と表現している[19]。ガガはデビュー・アルバムの制作を音楽プロデューサーレッドワンと共に行った。
◇2008年 - 現在:ザ・フェイム
2008年にデビュー・アルバム『ザ・フェイム』をリリース。彼女自身が全ての歌詞を手がけ、メロディー作曲も自分でこなし、シンセサイザーの部分も自らが演奏している[14]。『ザ・フェイム』は、オーストリア、イギリス、カナダ、アイルランドチャートにて1位を獲得。アメリカ合衆国とオーストラリアでは最高位4位を[20]、日本では最高位6位を記録している[21]。全世界での売上枚数は400万枚を突破している[8]。アルバムからのリードシングル「ジャスト・ダンス」は2008年4月8日にリリースされ、世界各国で首位を獲得。「ジャスト・ダンス」は、アメリカ合衆国やイギリスなど世界5ヶ国のシングルチャートで1位を獲得している[22]。2009年2月に行われた第51回グラミー賞では「ジャスト・ダンス」で最優秀ダンス・レコーディング賞にノミネートされるも、ダフト・パンクの「仕事は終わらない」が受賞し、ガガは受賞を逃している[23]。続いてリリースされた「ポーカー・フェイス」は2009年4月11日付けのアメリカ合衆国のシングルチャートBillboard Hot 100で1位となった。これによりガガは2000年以降、デビュー・アルバムから2枚のシングルを全米チャート1位に送り込んだ初の新人アーティストとなった。1st、2ndシングル2枚で全米1位を達成した女性新人アーティストは3人で、ガガはティファニー、マライア・キャリー、クリスティーナ・アギレラに次ぐ4人目となった[24][25]。この楽曲はイギリス、カナダ、オーストラリアを始めとした世界17の国と地域のシングルチャートで1位を獲得している[22]。また、「ポーカー・フェイス」はヨーロッパ全土を対象にしたシングル・チャートEurochart Hot 100 Singlesでも16週にわたって1位を記録[26]。更にイギリスのThe Official Chart Companyが発表した"イギリスで最もダウンロードされた曲"では77万ユニットのダウンロード数により1位を獲得している[27]。
その後、ガガは同じインタースコープ・レコード所属のポップ・グループニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのアメリカ市場でのツアーに同行。ガガは2008年10月8日のロサンゼルス公演から最終日の11月までを彼らと共に回り、またこれがガガにとって初のツアーとなった[28]。なお、ガガは彼らの新作アルバム『ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック』に楽曲「ビッグ・ガール・ナウ」を提供、客演も行っている[29]。2009年1月には、オセアニア地方のみで「エイ、エイ (ナッシング・エルス・アイ・キャン・セイ)」をシングル・リリース。同曲はオーストラリア、ニュージーランド双方でゴールドの認定を受けている[30][31]。ガガ初の自身の北アメリカライヴ・ツアーThe Fame Ball Tourは2009年3月12日からスタートし、このツアーは批評家から賞賛された。5月にはプッシーキャット・ドールズでオープニング・アクトも勤めている。その後世界市場に向けてのサード・シングル「ラヴゲーム」を発表。この楽曲のミュージック・ビデオは、オーストラリアのテレビ局Network Tenではビデオの内容と楽曲の歌詞が"過激すぎる"ことを理由にビデオの放映が中止され、イギリスでは同じ理由でシングル化自体が見送られている。この楽曲は7月に米ビルボード誌のエアプレイ・チャートMainstream Top 40の2009年7月25日付のチャートで1位を獲得。デビュー・アルバムから「ジャスト・ダンス」、「ポーカー・フェイス」の2曲に続けて3曲を連続で同チャート1位に送り込んだ史上3組目のアーティストとなった[32]。
2009年5月、有力な音楽雑誌『ローリング・ストーン』の毎年恒例となっているHOTリスト号の同誌6月号の表紙をセミ・ヌード姿で飾った[33]。この時ガガは同誌のインタビューの中でバイ・セクシャルであることを告白した[34][35]。ガガは6月にリリースされたラッパーワーレイのシングル「チリン」にも客演で参加している[36]。7月にはイギリスで「パパラッチ」をシングル・リリースしている。MTV Video Music Awards 2009でガガは、この楽曲を含む同年のアワード最多となる合計9部門でノミネートを受け[37][38]、9月に行われた授賞式では「パパラッチ」のライブ・パフォーマンスを披露した他、「ポーカー・フェイス」での最優秀新人アーティスト賞を含む合計3部門で受賞[39]。加えて、米ビルボード誌主催のWomen In Musicアワードでは新人賞にあたるRising Star賞を受賞している[40]。
11月にはデビュー・アルバムの再発盤『ザ・フェイム:モンスター』のリリースが予定されている[41][42][43]。しかしガガは再発盤のリリースはファンにとってフェアではないという理由から否定的な立場で、そのため『モンスター』には新曲を沢山収録する予定であると話している。この再発盤からのファースト・シングル「バッド・ロマンス」は『サタデー・ナイト・ライヴ』にて初披露されている[44]。同番組ではマドンナとパフォーマンスを披露している。同年10月10日にHuman Rights Campaignのデモ行進に出席。行進前に「音楽業界には未だ多くの同性愛嫌悪が存在する。」とスピーチ[45][46]。「今夜は自分の曲は演奏しないの。私のための夜ではない」と述べ、グランドピアノに座る前に「あなたたちのための夜だから」と言って、ジョン・レノンの『イマジン』を一部歌詞とメロディーを変えて披露した。また、1998年に殺害された同性愛者の大学生マシュー・シェパードへのメッセージを込めた[45]。『バッド・ロマンス』はアメリカ、オーストラリア、アイルランドでトップ10入り、イギリス、カナダ、スウェーデンのチャートで1位を獲得した[47][48]。『ザ・モンスター』からのシングル「スピーチレス」は2009年12月11日に行われたロイヤル・ヴァラエティ・パフォーマンスで披露した。そこでは、エリザベス女王と対面した[49]。
■音楽性と影響
ガガは主にデヴィッド・ボウイ、クラウス・ノミとクイーンの様な魅力的なロッカーや、ポップ歌手のマドンナ、マイケル・ジャクソン、芸術家のアンディ・ウォーホル、詩人のライナー・マリア・リルケ、ファッション・アイコンとエンターテイナーとしてのグレース・ジョーンズに影響を受けている[2][50]。ガガのボーカルはマドンナやグウェン・ステファニーと頻繁に比較される。音楽の構図は1980年代のポップと1990年代のユーロポップを思い出させると言われている[51]。
ガガはファッションについて「何よりも大切なもの」でまた「私のすべて」であると話している[16][52]。そのファッションに対する愛情は母親の影響が大きく「常に身だしなみがよく、美しい」と語っている[10]。また、「私が音楽を書いているとき、私は私がステージで着たい服について考えている。それは、パフォーマンスアート、ポップパフォーマンスアート、ファッションと全てについてである。」と主張している。彼女は彼女自身が持つ創造的なチームを「ハウス・オブ・ガガ」と呼んでいる。チームは彼女の服、ステージ、ヘアスタイルなど多くに関わる[53]。
ガガは6つのタトゥーをいれていることが確認されている[54]。手首にあるピースシンボルのタトゥーはイギリスのミュージシャン、ジョン・レノンに影響を受けたもので、ガガは『ガーディアン』において彼を「英雄」だと語っている[55]。左腕には詩人のライナー・マリア・リルケの詩が引用されている。またガガはリルケを「一番好きな哲学者」と評している[56]。 日本のポップカルチャーに感銘を受け来日時にLOVE TOKYOと左肩にタトゥーを入れた。 ガガはドナテラ・ヴェルサーチが自身のミューズであると考えていると述べた[16]。ガガの発言を受けて、『ロサンゼルス・タイムズ』のメリッサ・マグサイサイは「ガガがトップとボトムを同時に着ることを嫌悪する。シャンパンをがぶ飲みし油っぽい男性に仰がれているのは、まさにドナテラ風」というコメントをした[57]。2008年末頃に歌手のクリスティーナ・アギレラとの類似が指摘され始めた。指摘されたのは主にスタイル、ヘアーやメイクアップの類似であるが[16]、これを聞いたアギレラは「ガガを知らない」「ガガが男性か女性かも知らない」と述べている[16]。この発言を受けてガガは「彼女はビッグスター。そして、類似が指摘されるまで多くの人は私を知らなかったから、何かあるとすれば私は彼女に花を送らなくちゃいけない」というコメントを発表した。その後、ガガは「私はこのスキャンダルで記憶されたくない」と付け加えた[58][59][13]。ガガの髪は自然なブルネットである。しかし、それだと歌手仲間であるエイミー・ワインハウスに間違えられるので髪をブロンドに染めた[60]。
ガガは早い段階での成功やメーンストリーム・アーティストになれたのには同性愛者のファンとそのコミュニティでの自身への支持があり、それらのアイコンとなったことが大きいと述べている[61][62][63]。ガガは「私の分岐点は、同性愛者のコミュニティであった。私はそれほど多くの同性愛者のファンがいる。そして、彼らは私にとても忠実である。そして、彼らは私を持ち上げた。彼らは私を常に支持する、そして、私は彼らを常に支持する。それはファンベースを作る簡単なものではない。」とコメントしている[64][65]。ガガはマンハッタンに拠点を置くLGBTマーケティング会社「FlyLife」でスタジオ・アルバム『ザ・フェイム』を観客の前で初めて演奏した。そして、「私は貴方を愛している。貴方はこのプロジェクトの最初の鼓動であった。そして、貴方の支持と輝きは私にとっての世界を意味する。私はこの驚くべきチームと協力し同性愛者のコミュニティの為に戦う。」とコメントした[66] 。ガガのテレビ番組での最初のパフォーマンスの内の1つは2008年5月放送のLGBTテレビジョン・ネットワークLogoのNewNowNext Awardsであり、そこで「ジャスト・ダンス」を披露している[67] 。同年6月にサンフランシスコ・プライドでもパフォーマンスを行っている[68]。2009年5月に『エレン・デジェネレス・ショー』にゲスト出演した際に、司会のエレン・デジェネレスを「女性と同性愛者コミュニティの為の発想の源」と称賛した[69]。また、MTV Video Music Awards 2009でガガは、「神とゲイに感謝するわ」という受賞スピーチも行っている[70]。
■ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
ザ・フェイム(2008年)
ザ・モンスター(2009年)
■ツアー
The Fame Ball Tour(2009年)
The Monster Ball Tour(2009年 – 2010年)
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